更科の系譜

ここでは「更科」の「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」今は「更科堀井総本家」の系譜を紹介いたします。

1789年(寛政元年)
更科の系譜は創業は1789年(寛政元年)清右衛門が、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まりであります。保科家との関係から大名屋敷や有力寺院などに出入りしてたという。そのためか、当初から高級な蕎麦屋として名声を高めていました。
明治32年に麻布永坂更科支店 布屋善次郎を開店していることから「麻布永坂更科」といった屋号もあることが見受けられます。明治に入り分店や支店等も出来て一門を形成するようになり、最盛期を迎えていました。

1941年(昭和16年)
関東大震災や昭和初期の国内外の恐慌等の影響、七代目松之助の遊蕩が等が重なり「麻布永坂更科」は廃業となります。

血脈による再興まで
1948年(昭和23年)
料理屋を営んでいた馬場繁太郎が七代目松之助(保)の「永坂更科」の店名使用を承諾書にて交わして「永坂更科本店」開店。これにより一門とはとは違うところから「更科」が出てくることとなります。名前の使用に関して後に裁判になりますが「承諾書」があったため、「永坂」と「更科」の間を離して「永坂 更科」とすることで和解。
七代目松之助(保)という人はうっかりさんなのか、おおらかな方なのかどちらにせよその後も名前の使用に関して問題が発生することに。

1949年(昭和24年)
本家筋による店を再開しようと動きがあって合資会社「麻布永坂更科 総本店」設立。
設立メンバーは七代目松之助、妻きん、麻布十番商店街の小林玩具店 小林勇(現・永坂更科布屋太兵衛の初代)
しばらくして「永坂更科」を法人として商標登録。これが後に問題をおこすこととなる。

1959年(昭和34年)
小林玩具店の小林勇が「永坂更科布屋太兵衛」を設立

1961年(昭和36年)
「麻布永坂更科 総本店」「永坂更科布屋太兵衛」を会社合併により、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」となり、代表権は小林勇
「布屋太兵衛」が商標登録され、「永坂更科」とともに株式会社「永坂更科布屋太兵衛」のものに。

最初の合資会社に入社していた八代目良造はしだいに会社としてのあり方、八代目としてのあり方に疑問を抱き始める。

1984年(昭和59年)
12月、八代目堀井良造によって「信州更科布屋総本家」を開店し再興が叶う。
だがここでも名前に関する問題が噴出。「布屋」が株式会社「永坂更科布屋太兵衛」によって商標登録されていたことから使用権をめぐって裁判に。そして改称することとなる。改称にあたっては地元の人たちが「堀井の更科」ということからヒントを得て、「更科堀井」とし争点の決着が付く。
のちに八代目堀井良造は「父が個人で商標登録していれば、その後の厄介な問題にならずにすんだのですが大失敗でした」と語っている。ともあれ、見事再興を成し遂げたのであります。

魅力・特徴
なんといっても真っ白なさらしなそばが代表的なメニュー。そばの実の芯の部分だけを用いて打ち、ほんのりした甘みと、のど越しの良さが特徴。
季節の変わり蕎麦は「柚子切り」「よもぎ切り」等があり、職人の遊び心を楽しめるとのこと。
因みに三大江戸蕎麦は更科が白藪蕎麦が緑、砂場が黄と言われています。

更科の系譜
麻布十番にある更科
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